僕は「幸せ」な状態に恐怖を感じる。
物事が順風満帆に進んで、満たされている状態が怖くてしょうがない。
かといって「幸せ」を望んでいないわけではない。
日々、自己研鑽に励んだり、好きな人と一緒に過ごしたりするのは
「幸せ」になりたいからである。
しかしいい結果を出したり、順風満帆で満たされている状態の中、ふと冷静になることがある。
「人生あざなえる縄のごとし。この状態はいつか逆転し、不幸が必ず訪れる。今感じている幸せの度合いが大きければ大きいほど、返ってくる不幸は相応の大きいものに違いない。」という考えに至る。
返ってくる不幸を最小限に抑えるため、大きな幸せを感じたあと、自分を追い込むことにしている。
全くロジカルじゃないし、何か統計があるわけでもない。
ただの強迫観念でしかないかもしれないが、とにかく怖い。
幸せであることを素直に受け止めることができない。
来るのか来ないのかもわからない将来の不幸がいつも頭の片隅にある。
傍から見たら全く面白くない人生であろうが、僕の中では良いバランスを保つために必要不可欠な考えである。
この考え方は大学受験の時に端を発している。
きっかけは浪人が決定してしまったときに心に誓ったことである。
「どんな結果が出ても一喜一憂しない」
それからいい成績が出ても悪い成績が出ても、全く動じることはなかった。
徹底しすぎて今でも多少名残はあるのだが、感情が殺されてしまった。
笑いもしない、泣きもしない、怒りもしない、悲しくもならない。
ただ、機械的に結果を処理する人間になっていった。
もちろん受験から数年経過しているため、かなり影響力は薄まっているが
受験期の「機械的処理人間」が今の「幸せを恐怖する人間」へとつながっていったと思われる。
素直に幸せを追い求め、受け入れ、これからもずっと続いていくんだろうなと確信が持てる人がうらやましいと同時に「頭の中お花畑なの?」と思う気持ちもある。
幸せな状態なんか続くわけないじゃないか。
幸せな状態の中でもどこか冷静でいるべきで、これから訪れるであろう大きさも形もタイミングもわからない不幸を受け入れ、対処していくための努力をすべきであろう。
見方によってはメチャクチャビビりだが
ビビりじゃないと人は成長しないのかもしれない。
ネガティブな感情は進歩をもたらす。
あれがヤダ、これが怖い、不愉快だと感じることで「改善」が生まれるのだ。
「幸せ」を感じた後の「不幸」を恐怖することによって僕は進歩している。
進歩しなければならない。
それか受けた幸せを誰かに分け与えるのもいいかもしれない(この記事を書いている間に思いついた)
自らを追い込み、相殺するか、誰かに幸せを分け与えることで返ってくる不幸に対処できるかもしれない。
「幸福・不幸論」の結論はまだまだ先の様である。