僕にとって121冊目となる『限りなく透明に近いブルー』の感想です。
『限りなく透明に近いブルー』のあらすじ…
舞台は東京、基地の町、福生。ここにあるアパートの一室、通称ハウスで主人公リュウや複数の男女がクスリ、LSD、セックス、暴力、兵士との交流などに明け暮れ生活している。明日、何か変わったことがおこるわけでも、何かを探していたり、期待しているわけでもない。リュウは仲間達の行為を客観的に見続け、彼らはハウスを中心にただただ荒廃していく。そしていつの間にかハウスからは仲間達は去っていき、リュウの目にはいつか見た幻覚が鳥として見えた。
本記事の内容
・退廃的な若者を淡々と描いている
・まったく知らない世界を体験する
退廃的な若者を淡々と描いている
この小説は終始、退廃的な生活を送っている若者たちを客観的に淡々と描いています。
「退廃的」というのは道徳的に崩れていて不健全なことを指します。
あらすじにも書いてある通り、クスリやだらしのない性行為、そして暴力などがあふれている世界を描いているのです。
退廃的な生活を描いた小説はもっとセンセーショナルに描かれることが多いのですが、リュウという主人公の目線から目の前に繰り広げられている事実が淡々と描かれています。
しかも淡々と描かれるどころか、美しくもあるのです。
これは文章でないと表現できない世界で、映像化すると魅力が失われてしまう。
よく比較されるのが、石原慎太郎さんの『太陽の季節』なのですが、どちらも無軌道な若者を描いていて、芥川賞を受賞するときも、さんざん揉めに揉めた作品です。
「純粋な文学」を信仰としている作家からはどちらも「嫌悪感を感じる」といわれています。
ただ『太陽の季節』に出てくる若者たちは「ほとばしるエネルギー」を感じることができたのに対し『限りなく透明に近いブルー』に出てくる若者は「とにかく淡々としていて一歩引いている」という部分が違いますかね。
まったく知らない世界を体験する
当然、僕はドラッグをやったり多人数での性行為や暴力をふるった経験がありません。
これからもするつもりはないですし、そんなことをやっている暇はない。
しかし、小説を通して「こういう世界も存在している」ということを知ることができる。
「こういう人たち、世界もあるのだ」ということを教えてくれるのも小説の役割なのかなと考えてます。
しかも『太陽の季節』も『限りなく透明に近いブルー』は反対されたもののその時代の若者を代表しています。
いわばその時代のカルチャーを知ることができる歴史書のようなんですよね。
*もしかしたらその時代では「これから訪れようとするカルチャー」なのかもしれません。
本作が発表されて40年以上、経過しているので、今では「衝撃を受ける作品」というほどのものではないけど、どの時代にそういう作品が論争を巻き起こすのか、どういう世界観を描いているのかを知るというのは面白いことだと思います。
1回読んだだけではすべてを理解することができませんが、一読に値する小説です。