NOW UPDATING...

HASTA LA VISTA BABY

『代表的日本人』について ①西郷隆盛編

f:id:updateplan:20181015091102p:plain

あなたは『代表的日本人』という内村鑑三が書いた書籍をご存知でしょうか。

『代表的日本人』の簡単に内容を書きますと…

新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』と並ぶ、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作。内村鑑三(1861‐1930)が、奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。新たな訳による新版。

「BOOK」データベースより

『代表的日本人』には 西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の生涯が描かれていて、それぞれの人生を通じて日本人としてどのように生きていけばいいか模索した書になります。

 

本記事ではまず西郷隆盛の生涯について『代表的日本人』をもとにご紹介したいと思います。

本記事の内容

・明治維新とは?

・西郷隆盛の思想について

・西郷隆盛を原動力とした討幕運動

・朝鮮半島征服を拒否されたあとの西郷隆盛について

・西郷隆盛から学ぶGive&Takeの極意 

明治維新とは?

 西郷隆盛の生涯をご紹介する前に明治維新について理解しなければいけません。

明治維新とは…

明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。

明治維新 - Wikipediaより

 小学校もしくは中学校で習ったと思いますが、「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」という3つのスローガンをかかげ、西洋に追い付き追い越せという目的をもった革命のことですね。

 

本記事は明治維新について語るものではないので、ここまでの知識で問題ありません。

西郷隆盛の思想について

西郷隆盛は今の鹿児島県にあたる薩摩藩でうまれました。

幼いことはマヌケで特に突出した才能もなかったといわれています。

 

しかし、縁戚のハラキリを間近でみた西郷隆盛はこの時から変化するのです。

命というものは君と国とに捧げなければならないと意識しはじめます。

 

西郷隆盛は王陽明が提唱した「陽明学」を学んでいました。

かなり簡単にいえば実践を重んじる学問です。

 

一方、当時幕府が官学として保護していた学問は「朱子学」といい、かなり簡単にいえば道徳を重んじる学問です。

 

また、陽明学のほかに仏教の禅の思想にも通じており、自身の「情のもろさ」をおさえるためであったと言われています。

 

このように西郷隆盛はヨーロッパの思想・文化にはいっさい興味を示さず東洋的なものに拠っていました。

 

このことがベースとなっているのかわかりませんが、西郷隆盛は生涯2つの思想が見られるのです。

1.統一国家

2.東アジアの征服

陽明学は前向きで進歩的な考え方なので、外向きに思考がむかったのかもしれません。

西郷隆盛がもっとも影響をうけた人物は2人います。

・薩摩藩主である島津斉彬(しまづなりあきら)

・水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)

島津斉彬は強力な攘夷思想をもっています。いわばアンチヨーロッパです。

また、藤田東湖についても日本という国を体現した人物のようで、こちらもまた強力なアンチヨーロッパです。

 

この2人に影響をうけた西郷隆盛はヨーロッパの思想をうけいれず、周りの国を征服して領土をひろげ、西洋諸国に立ち向かえるようにしようとします。 

西郷隆盛を原動力とした討幕運動

西郷隆盛なしに討幕が成し遂げられることはなかったでしょう。

経済にはうといし、政治については木戸孝允や大久保利通が強いし、平和的安定には三条実美や岩倉具視の方が優れていますので、西郷隆盛ひとりの功績とはいえませんが、討幕の原動力となったことは間違えない

 

これも実践を重んじた陽明学を学んでいた影響なのでしょうか。

また、二人の偉人の影響をうけているからなのでしょうか。

いろんなことが西郷隆盛に影響を与えて、原動力となるまでになったのだと思います。

 

西郷隆盛の斡旋により、徳川幕府と長州との間に和解が成立しましたが、のちに幕府側が長州に無理難題を押し付け、これを長州側が拒否。

そして幕府は長州征討がおこると、西郷は薩摩藩に幕府向けの軍隊の派遣を拒否するように指示します。

このことが後の討幕のきっかけとなる「薩長連合」の発端なのです。

 

その後戊辰戦争が勃発し、官軍が勝利し、旧幕府軍とともに幕府は消滅します。

以上のようにスターターとなったのは西郷隆盛であることがわかります。

朝鮮半島征服を拒否されたあとの西郷隆盛について

多くの人が統一国家をつくることをゴールとし、戊辰戦争での新政府軍の勝利により成し遂げられましたが、西郷隆盛はスタートラインに立ったと考えていました。

 

上述の通り、西郷隆盛は東アジアの征服を考えていたからです。

ヨーロッパに対抗するには領土の拡大が必要と考えていたので、まずは朝鮮に使節を送ります。

 

しかし、朝鮮では日本の使節に対し、無礼な態度をとったうえ、朝鮮半島内の居留日本人に対して露骨な敵意をむけていたので、西郷隆盛は放っておいていいのかと考えます。

 

そこで、西郷隆盛はもう一度使節を送って態度が改まっていない場合は、天の許す限り征服すると考えました。

そして西郷隆盛は次回の使節として立候補します。

 

その時、岩倉具視や大久保利通らは西洋を視察して自由にあふれた実情をみて、西洋文化を取り入れる方向に舵をきろうとしていたので、朝鮮半島へ使節を送ることを拒否します。

 

そして、日本は領土拡大ではなく文明開化へと動き出すのです...

 

文明開化に対して西郷隆盛は「文明とは正義の広くおこなわれることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない。」という定義を残しています。

 

その後、政府に歯向かった西郷隆盛は国内最後の内戦といわれる西南戦争に敗れ、城山で自刃します。

西郷隆盛に学ぶGive&Takeの極意

Twitterでもツイートしましたが、「多くの人はTakeすれば豊かになり、Giveをすれば失うだけと考えているが、ありえん!」といった主旨の文書を残しています。

 

傑物となる人物は常にGiveの精神を忘れません。

富も知識も情報も何でもかんでも与えて、ときに育てるのです。

そうするとあまりあるほどの収穫を得ることができると説いています。

 

この精神に関しては西郷隆盛に見習うばかりですね。

彼は一人の人間として立派な人物なのでした。