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『代表的日本人』について ④中江藤樹編

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あなたは『代表的日本人』という内村鑑三が書いた書籍をご存知でしょうか。

『代表的日本人』の簡単に内容を書きますと…

新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『茶の本』と並ぶ、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作。内村鑑三(1861‐1930)が、奔流のように押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。新たな訳による新版。

「BOOK」データベースより

 『代表的日本人』には 西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の生涯が描かれていて、それぞれの人生を通じて日本人としてどのように生きていけばいいか模索した書になります。

 

本記事では二宮尊徳に続き、中江藤樹について『代表的日本人』をもとにご紹介いたします。

本記事の内容

・孔子の『大学』との出会い

・私塾をひらく

・中江藤樹から学べること

孔子『大学』との出会い 

中江藤樹は1606年に近江にうまれました。

当時の世の中はまだ戦の中にあり、学問や思想を求めることは何の価値もないとされていた時代でした。

 

中江藤樹は11歳のころに孔子の『大学』に出会い、将来の全生涯をきめる大志をたてるのです。

『大学』には以下のようなことが書かれていました。

 

「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある。」

 

このフレーズに叫ぶほど感動し「聖人たれ」という大志を抱くことになるのです。

 

儒者である中江藤樹は当時、仏教があまり好きではありませんでした。

先生に「仏陀はうまれたときに「天上天下唯我独尊」ととなえたそうですが、こんな人物を理想する理由は何か」という趣旨の質問をぶつけたことがあるくらいです。

*天上天下唯我独尊という言葉は「この世で自分ほど偉い者はいない」という意味です。

 

私塾をひらく

藤樹が28歳になったときに、行商をやめて私塾をひらきました。

藤樹の私塾では科学や数学というものを教えませんでした。

 

もっぱら教えるのは中国の古典、歴史、作詩、書道でした。

著者の内村鑑三も学校教育とは、ささやかで目に見えないことであるとしています。

 

中江藤樹は目立たないように過ごしていましたが、彼の名は世間に知られることになります。

心の中だけが、彼の王国なので評判になって世間の目に触れることを嫌いました。

 

彼は徳に重きをおき、学識というものを軽んじていました。

彼の考えはこうです。

「”学者”とは徳によって与えらえる名。学識によるものではない。徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人だ。無学でも徳があれば、学者である」

いくら知識が豊富であっても、人格者でなければただの人だということです。

中江藤樹から学べること

中江藤樹から「思索にふけることもまったく無駄ではない」ということを学ぶことができます。

人々は名誉や利益を求め、高慢になり欲望のまま生きがちだけど、それは藤樹にいわせれば「ただの人」なんですよ。

藤樹の見た目は質素そのものみたいでしたが、内面は海のように広い人物でした。

 

彼は最初、朱子学を学んでいましたが、疑問を感じるようになり陽明学を学び始めます。

これは弟子の熊沢蕃山に受け継がれ、そして藤田東湖、西郷隆盛へとわたり、幕末の偉人たちの精神的な支えとなりました。

 

西郷隆盛はこの記事でも紹介した通り、討幕の要となった薩長連合の原動力となった人物です。

陽明学自体は中国の学問ですが、戦の世の中で非常識とされていた学問に力をいれたことが後々、日本を変える原動力のひとつとなったのです。

 

目立つことを目標とするのではなく、自分にとって大切なことは何か、本質は何なのかということを考えるべきなのです。